周辺散歩

2019年12月 8日 (日)

台風は河川敷に大きな爪痕を残しています

  10月12日の夜に来襲した台風12号は多摩川流域にも大きな被害をもたらしました。ここ多摩川左岸29km付近は、堤防から水は溢れませんでしたが、河川敷は水浸しで濁流が押し寄せたよう です。約1か月後に行ってみたところ、住宅地は無事でしたが、河川敷には大きな爪痕が見られました。

P191106_8_1852

この辺には消波ブロックが埋められ、今年の春も川底を掘り下げて護岸工事をやったばかりでしたが、流木が絡みついたブロックが押し上げられているのを見ると、濁流のものすごさが感じられます。

P191106_8_1833 
P191106_8_1835
P191106_8_1843 

堤防に沿って造られた緊急用河川敷道路は、敷き詰められた砂や砂利がえぐり取られ、大きな石ころがむき出しになっていました。

P191106_8_1848

 P191106_8_1844

稲城大橋付近のアカシアの林は、流れて来た流木やごみで一杯でした。

P191106_8_1872 

橋の下を通る緊急用河川敷道路は、細かい砂で埋まっていました。

P191106_8_1869

親水公園も水浸しになり、周りを覆っていたグミ等の樹々は倒れたり流されたりして見通しがよくなり、池の境界も分からなくなっています。

P191106_8_1911 
P191106_8_1897

水路に掛けられた石橋もごみに埋まっています。

P191106_8_1902 

中州には木が茂っていましたが、皆倒れており、陸続きになってしまいました。

P191106_8_1895 

ここは以前紹介したカゼクサの小径ですが、砂だらけです。

P191106_8_1903 

そして、その先は堤防が壊れていて、立ち入り禁止になっています。多摩川の堤防は2段になっていて、流れに沿った1段目の堤防は決壊して崩れていますが

P191106_8_1904 

上にある堤防を水が越えることはありませんでした。然し土手のかなり上の方にごみの跡があります。そのごみの線あたりに赤くペンキが塗られていますので、この辺まで水位が上がったという事でしょうか?

P191106_8_1845 
P191106_8_1908 

台風が過ぎてもう2か月近く経ちますが、河川敷の爪痕は生々しく残ったままです。

2019年1月14日 (月)

押立の「どんど焼き」は壮大です

年末から正月にかけて、なかなか外に出ませんでしたが、もう小正月になり、本日府中市押立の「どんど焼き」が行われたので行ってきました。一昨年は1月15日に報告しましたが、点火時刻が朝8時と早いので、寒いこともあり、昨年は出かけませんでした。

今年は天気も良く、風もなかったので、富士山もよく見えていました。竹と藁で組み立てられた巨大な円錐形の「塞の神」に、午前8時、消防車のサイレンの合図で火がつけられました。最初煙が巻いていましたが、すぐに大きな炎が舞い上がり、2分余りで焼け落ち、塞の神は天に上りました。太い青竹の弾ける音が、遠くまでパンパンと響き渡りました。あっという間の壮大な出来事でした。帰りに、押立神社でお祓いをしてもらい、お守りのお札をいただきました。

P190114_8_0216
(8時0分33秒、点火約30秒後)

P190114_8_0221 P190114_8_0223
(左:8時0分57秒、 右:8時1分7秒)   

P190114_8_0226
(8時1分24秒)

P190114_8_0232
(8時1分54秒)

P190114_8_0235
(8時2分10秒)

P190114_8_0242

2018年12月26日 (水)

是政の渡し

常久の渡しよりさらに1kmばかり上流、是政橋のあたりに是政の渡しの碑があります。

是政の渡しは、是政村(府中市)と対岸の大丸村(稲城市)を結ぶ稲城道(川崎街道)筋の渡しでした。昭和16年、是政橋の完成で廃止されました。

P181127_8_0137

P181127_8_0146

P181127_8_0149

P181127_8_0151

P181127_8_0152

2018年12月25日 (火)

常久の渡し

押立の渡しより1kmばかり上流、稲城大橋と是政橋の間、親水公園のそばに、常久の渡しの碑があります。この渡しは「常久河原(つねひさがわら)の渡し」と呼ばれ、対岸の耕作場に行くための「作場渡し」(さくばわたし--農耕渡し)であったため、渡し賃をとらなかったそうです。

P181127_8_0171

P181127_8_0174

P181127_8_0179

2018年12月24日 (月)

本村神社と龍光寺

押立神社のそばに本村神社と龍光寺があります。

P181031_8_9937

本村神社は、江戸時代初期に多摩川の流路が変わって押立村が南北に分断され、北側が本村となったのちに創建されたという事です。

P181031_8_9954

龍光寺は天台宗で神明山薬王院と号し、江戸時代は深大寺の末寺で、押立神社も、稲城の島守神社も「龍光寺の持」だったとされていますので、この返一帯の寺社を所有していたのでしょう。たび重なる多摩川の氾濫により境内地や寺領等が流出し、現在の地に移転したようです。

P181031_8_9944

ここには、押立村の名主で多摩川大洪水の後の治水工事や、武蔵野新田の安定化などで、村々の救済・復興に尽くし、やがて岐阜県や島根県に幕府代官として派遣され、大きな業績を残した川崎平右衛門定孝の墓があり、東京都の文化財(旧跡)に指定されています。然し解放された構えではないので、中には入れませんでした。門の外には、「武蔵府中郷土かるた」の「き」の札、「ききん救った平右衛門」の碑が建っています。龍光寺の入り口に庚申塔がありました。

P181031_8_9950 P181031_8_9943P181031_8_9948 P181031_8_9940
P181031_8_9949 

2018年12月23日 (日)

稲城市の押立

府中市の押立の渡しについては、11月17日に報告しました。そこで、多摩川の対岸(右岸)の押立の渡しの地点を探して、稲城市に行ってみました。押立の渡しの跡は稲城大橋の下流、押立児童公園のそばにありました。河岸ではなく、近くの道路の脇に「押立渡船場跡」と書かれた碑が建っていました。

P181124_8_0065

P181124_8_0072

P181124_8_0071

P181124_8_0066

それより上流の稲城大橋の近くには島守神社があります。何度も洪水を引き起こした多摩川は、江戸時代の17世紀頃には南北二流に分かれ、この辺りは島になっていたようで、床が高いのは洪水への対処のようです。

P181124_8_0052

P181124_8_0061

更に上流に進むと、天満天神社があります。堤防より低くなった保存樹木の中にポツンと社が建っています。稲荷天神、波除天神、水除天神などとも呼ばれており、多摩川の洪水への守りが祈られているようです。

P181124_8_0079

P181124_8_0083

P181124_8_0085

P181124_8_0089

2018年11月23日 (金)

押立神社はお稲荷さんです

「多摩川左岸29km」の近く、府中市押立町4丁目に押立神社があります。由緒を書いた立札によると、もとは現在の多摩川あたりに鎮座していたが、正保年間(1644~48)の大洪水のため、この地に遷座したという事です。山城国稲荷大神(現在の伏見稲荷大社)の分霊を鎮祭したのが始まりで、「手津久里稲荷(てづくりいなり)」と称していたが、明治14年(1881)に「押立神社」と改称したそうです。赤い鳥居はありませんが、社の前には狛犬ではなく、狐が座っています。

P181031_8_9893

P181031_8_9890

P181031_8_9897

P181031_8_9896

向かって右側はバス停になっていますが、そのあたりに庚申塔があります。年号は享保14己酉年(1729)で、青面金剛と三猿が掘られています。

P181031_8_9905

P181031_8_9908 P181031_8_9912
P181031_8_9907

更に此処には府中名木百選に選ばれた、イチョウ(No.14)とクロマツ(No.24)もあります。

P181031_8_9934 P181031_8_9901
P181031_8_9936

2018年11月 7日 (水)

「多摩川左岸29km」は「押立の渡し」の地点です

「周辺散歩」のカテゴリーを設けたことを機に、改めて本ブログの拠点、「多摩川左岸29km」の地点を紹介します。この地点は川下にある調布市の多摩川原橋と、川上にある府中市の稲城大橋の間に位置し、府中市押立町にあります。多摩川の土手に整備された遊歩道は、府中市内では「府中多摩川かぜのみち」と呼ばれますが、事故が多いため、歩行者は右側を、自転車は左側を通行するようにルール化されています。

P181031_8_9882

P181031_8_9865

P181031_8_9868

P181031_8_9883

「多摩川左岸29km」は「押立の渡し」のあったところです。

押立という地名は対岸の稲城市にもあり、両押立を舟で結んでいたのが「押立の渡し」です。昔は押立村は一つでしたが、江戸時代の初期に多摩川が氾濫して、この村を東西に分断してしまったのだそうです。その後北側が本村、南側が向押立(むこうおしたて)と呼ばれるようになったということです。

押立渡しの碑は平成元年に府中市が設置したものですが、その銘文には、新編武蔵風土記稿からの引用で、「土橋 多摩川に架す 長さ三十四五間 四月より九月までは橋を廃し舟を用ゐて渡せり」と書かれています。

昭和10年に下流に多摩川原橋が、昭和16年に上流に是政橋が開通したことによって、「押立の渡し」は次第になくなっていったようです。

P181031_8_9884

P181031_8_9869

P181031_8_9876 P181031_8_9875
P181031_8_9870